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為替今昔物語

昔物語〜為替と私とその変遷(3)

2003年02月25日(火)

ニクソンショックから10年間の外国為替相場を見てみよう。

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■ドルの下落

 1971年8月ニクソンショック後も日銀は360円の固定相場を維持する為に2週間にわたって合計40億ドルのドル買介入を行った。この金額は当時の日本の外貨準備金の50%に相当する金額であるといわれている。しかし、日銀の買い支えにもかかわらず、アメリカ経済のインフレ進行と膨大な貿易赤字を背景として、ドル相場は下落傾向を続け年末相場は前年比42円90銭(12.8%)も下落した。
 
同年12月に米国ワシントンDCにあるスミソニアン博物館で多角的な通貨調整合意が行なわれ、第二の固定相場1ドル=308円が決定し、為替相場の調整により世界貿易の均衡と為替相場の安定を図ることになった。本来であれば、円高になった分を輸出価格に織り込むことによって、外貨建ての輸出単価が上昇し、日本の貿易黒字に歯止めがかかる筈であった。しかし、日本企業は生産性の向上をはかり、外貨ベースの輸出価格を代えずに輸出を行なった為、輸出量は増大し、貿易収支の黒字体質は変わらなかった。その結果、ドル円は変動相場制を導入した1973年末のドル円相場は1970年末の相場から77円も下落した。

■対顧客公表相場

 固定相場時代は、東京外国為替市場が3時半に終了するとまもなく、翌日の対顧客公表相場が決定していた。すなわち、当日取引された翌日物渡し条件のドル相場を参考として、東京外国為替市場が閉鎖するとまもなく、例えば「明日の仲値は357円50銭に決定しました」とブローカーから連絡がくるのである。そして、翌日午前9時前に対顧客の売値(TTS)は仲値に50銭プラスして358円、買値(TTB)は50銭マイナスして357円に決定し、銀行ロビーにおいてある相場ボードで公表していたのである。

ニクソンショック以降為替相場の変動幅が大きくなった為、公表相場の決定時期が当日の午前10時に為替市場で取引されている相場を参考として、仲値を決定することに変更された。同時に銀行の為替変動相場リスク管理の観点から、手数料(仲値にプラス・マイナスする値幅)を従来の倍にした。即ち、ドルの手数料(TTS−TTB)は1円から2円に変更となり、西独マルクは1円50銭から3円になり、英国ポンドは4円から8円となった。その幅は現在まで変わっていない。(西独マルクはユーロ誕生により無くなったが、ユーロの手数料は西独マルクの3円を採用している。)

■ブローカー取引の実態

 固定相場時代は為替ブローカーとの連絡は外線電話で行なっていたが、ニクソンショック以降は相場が短期間で大幅に変動することになったので、リアルタイムで時価相場を知る必要がでてきた。そして為替ブローカーと銀行の電話連絡は専用電話回線に代わった。
 
専用回線電話は電話機の横にハンドルがついており、そのハンドルをくるくる回すと為替ブローカーの受話器がりんりんと鳴り、電話で呼んでいるのが分かる仕組みになっていた。午前9時に東京外国為替市場が開始されてから午後3時半に取引が終了まで、1分と間をおかないで、くるくるとハンドルを回してブローカーから相場情報を収集していた。毎日数時間手首を使ってハンドルを回していたため、右手が腱鞘炎になって箸ももてなくなってしまった。ハンドルを回すのは後輩の仕事となり二人がかりでブローカーと電話連絡をして為替取引を行なった覚えがある。現在のボタン式電話があったら腱鞘炎にはならなくてすんでいた筈である。キーパンチャーが腱鞘炎になり社会問題化する前のお話である。

■第一次オイルショック後の為替相場

 1973年に中東戦争をきっかけとして、第一次オイルショックが始まった。原油価格が品質によって1バレル2〜3ドル程度であったが、10ドル〜12ドルと4倍に値上げとなった。その結果原油輸入国の日本は貿易収支が悪化したため、ドル円は一時300円台を回復した。取引先の石油会社が持ち込む輸入信用状開設依頼書の原油価格が、その度に値上げとなり、果たしてどこまで値上げされるのだろかと心配になったほどである。もっとも、1バレル3ドルは飲料水よりも安い価格であったので、アメリカのメジャーから産油国が価格決定権を握ると、適正な価格に値上げされるのは自然の理であろう。

しかし、原油価格の上昇によりオイル産油国の外貨準備が増大したことで新たな円高要因となった。即ち、産油国は外貨準備をドルから強い通貨である西独マルクや日本円に交換して保有するようになったからである。その結果ドルは1978年には1ドル=175円と固定相場時代の50%の価値になってしまった。それでも米国の貿易赤字体質は変わらなかった。米ドルは基軸通貨であるので、貿易赤字になってもその分米国債を増発すればすむのである。

■外為法原則禁止から原則自由へ改正の背景

 1970年代は外為法が実需原則であったため、ドルの買支え(米国債の購入)は日銀のみであったが、増大する米国債の買い手として、民間の金融機関もその一端を担う必要がでてきた。1980年12月から施行された外為法改正により、外国為替取引が原則禁止から原則自由に改正されると同時に外為法にはじめて資本取引が導入された。その結果、日本の企業が外国市場で株式や債券の発行がその取引の内容を事前に大蔵省(現財務省)へ届け出るだけで、自由にできるようになった。また、外国の債券や株式を購入することも可能になった。1980年代に日本の銀行や生命保険会社が米国債投資に本格的に参入するきっかけとなった。

■銀行の国際化の推進

 固定相場時代、海外の銀行と直接為替取引をする契約(コルレス契約)を許可されていた銀行は、当時の都市銀行のみであった。(これを甲種外国為替公認銀行といった。)都市銀行以外の銀行は、顧客から依頼された輸出入貿易為替を甲種銀行に持ち込みコルレス業務を委託していた。

1970年代前半、日本長期信用銀行(現在の新生銀行)や信託銀行および地方銀行上位行に対して海外の銀行と直接コルレス契約が認められた。その後、1970年代後半〜1980年代地方銀行銀行、信用組合などにも順次海外の銀行と直接コルレス契約が認められ、日本の金融機関の国際化が急速に推し進められた。企業においても円高対策として海外に生産施設を移行する動きが活発となり、日本全体が国際化に一直線で押し進んでいった活気ある時代であった。
 
筆者自身もこの期間に受けた研修がその後長期間国際業務に携わるきっかけとなった。1980年にチェスマンハッタン銀行(現在JPモルガンチェス銀行)ニューヨーク本店が主催した2ヶ月間のセミナー「Seminar for International Bankers 」に参加した。その後当時のマニュファクチャラーズトラスト銀行(のちにケミカル銀行と合併)でさらに2ヶ月間OJT研修、そしてさらにロスアンジェルスに移り、セキュリティパシフィック銀行(その後、アメリカ銀行と合併)で2ヶ月のOJT研修を受けた。現在の金融不況下の金融機関ではは考えられないようなゆとりがある研修であった。この機会を与えられたことに感謝している。




Posted by 佐藤利光

プロフィール

佐藤利光

ジェトロ認定貿易アドバイザー / 佐藤利光

日本信託銀行(現三菱信託銀行)で外国為替業務に20年間、資金運用業務に10年間従事。固定相場時代から外国為替ディーラーを勤める。変動相場制移行のきっかけとなったニクソンショックの数少ない経験者。経営者向けセミナーや社内研修などの講師経験豊富。外国為替取引会社代表取締役を経て、平成15年4月1日より国際投資アドバイザーとして独立。ジェトロ認定貿易アドバイザー。

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